ラグビーは教会的なスポーツだと思う

2021年01月15日

年末からお正月明けまで、ラグビーは盛り上がりを見せる。1月2日は大学ラグビーの準決勝、1月9日は高校ラグビー(花園)の決勝戦、そして1月11日は大学ラグビーの決勝戦(国立)と、学生ラグビーは最後の舞台だ。

また、昨日(1月16日)からはラグビー・トップリーグが開幕予定だったが残念ながら新型コロナの影響で開幕が延期となった。

日本でプレーされているラグビーは主に15人制と7人制があるが、イギリスなどでは13名のもあったりする。ラグビーは2019年のワールドカップの盛り上がりもあって日本でもメジャーなスポーツにやっと固定されたように思うが、まだまだルールが難しいというのはよく聞く。

なにせ反則が分かりづらい。ノックオン(前にボールを落とす)やスローフォワード(前にボールを投げる)くらいならテレビで観ていてもわかる。ノットリリースザボール(倒れた選手がボールを離せなかった)、モールコラプシング(密集を故意に崩した)、プレーヤーが密集しているところでのオフサイドはよくわからない。あと、ノット10メーターとか、ほかにもいろいろある。でも、じつは選手たちのなかにもルールをよく分かっていないというのはよく聞くことだ。

あと、ラグビーは背番号毎にだいたい役割が決まっている。おおまかにはフォワードとバックスだが、1〜15番まで固有の名前があり、それぞれに期待されている役割を担いあうことでチーム力を結集し、ボールを敵陣の奥へ置くことに命をかける。

実際にラグビーの試合をみてみると、お相撲さんみたいな体型の選手から、2メートル近い長身の選手、かといえば身長165センチくらいの選手、やたら足が速い選手など、実にさまざまなタイプの選手によってチームが編成されていることがわかる。もちろんチーム毎に得意なプレースタイルが異なるので選手構成も一様ではないが、ラグビーというスポーツは必然的にチームに多様性が求められるのだ。

ラグビーチームに多様性が求められるのは多彩で柔軟な攻撃と守備のためだが、教会も同様に教会らしくあるためには多様性がなくてはならない。

教会の本質は「神によって集められた、イエス・キリストを信じる人たち」である。しかし、わたしたちは生身の人間なので、様々な弱さや欠け、クセをもっている。教会も時には自分たちにとって居心地のよいところとなってしまって、問題意識が薄らいでいることもある。

教会という共同体に求められる人の多様性というのは、まさに「だれでも」である。年齢、性別、ジェンダー、経済、健康によってカテゴライズされずに、様々な人が共同体にいることによって、それが豊かさとなるのである。

「自分自身と同じように隣人を愛しなさい」というイエスのことばは、多様性によって指数関数的に大きな祝福と恵みとなる。

だから、若くて健康で経済的に恵まれている人だけが集まるような教会(実際にはありません)よりも、いろんな人がいる教会のほうが明らかに、「キリスト教」的な共同体なはずである。

ラグビーはときに「自己犠牲」という言葉が出てくる。これは他者からの視点で語られる言葉だと個人的には思う。むしろ、個人の視点からでは「仲間のために」のほうがふさわしい言葉だろう。

教会という共同体・チームには15人という制約はない。15人以下でも15人以上でも、そこにいろんな人がいて、それぞれが尊く、神に喜ばれる存在であり、タラント(賜物)がある。だから、一人ひとりがキリストに従う者として「仲間のために」ということを、思いと言葉と行いで示していきたい。そこには自分のいさおをおごる人はおらず、互いに認め合い、信頼し合う姿があり、癒し、励まし、よろこびが必ずあるのだから。